2025年1月19日 配信
毎年、新年の抱負と称して、呪文のように同じ文句を唱えている。「3キロ痩せる」「英語話せるようになる」「小説の賞とる」・・・いや、もうそれ、自分で聞き飽きたし、夢を語るにときめきよりも自己嫌悪感じるのはどういうことよ、と思う。でも、どんな高名な祈祷師だって、呪文はただひたすら一心不乱に繰り返すもの、とまた自分に言い聞かせる。
私の場合、ある程度の形になるまでおよそ7年かかる。そういうことが一周生きてみて漸く掴めた。(あくまでも私の私による私のための統計上です。)サイコロだって6回振れば出て欲しい目が出るはずで、6回で出なくてもその先に出る確率はどんどん高まるわけだけれども、若い時にはそんな先までは待てないような気がした。でも、今は、寄り道しようが遠回りしようが、それは長い人生では一時のことで、決して無駄にはならないのだと腑に落ちているので7年程度は耐えられる。
あるいは、潔く撤退する。それもまた人生の選択ではある。撤退して選ばなかった道も幾つかあって、夏の終わりの夕暮れとか除夜の鐘を聴いている時に、ふとその時の香りのようなものがよぎって追いかけたくなるのだが、その懐かしいけれども決して手には入らない大切なものがあったという気持ちをただ愉しむということも出来るようになってきた。
昨日、お能に行った。子供の幼児教室で知り合って以来20年来の友人一家が能楽師の家系で、その幼児教室で0歳児の頃から知っているお嬢さんと息子さんが舞うのである。遠縁のおばさんぐらいの熱い気持ちで、「推し活」なのだ。
生まれた時から、息子さんの能楽師としての人生はほぼ決まっていて、恥ずかしがり屋の彼を見るにつけ、酷なことだなと何やら不憫にさえ思っていた。スポーツ選手になりたいとか、漫画家になりたいとか、IT関係に進みたいとかティーンエイジャーがありきたりに思い描くような夢を描く何年も前から、当たり前のようにお稽古はあるし、好きな道に進んでいいと言われたところで周囲の期待はひしひしと伝わっていただろうし、周囲はびしびしとそれを伝えていたはずだ。
逆に彼のお姉ちゃんは、お稽古を始めた時からお能が大好きで能楽師になりたがっていたものの、当時はまだ女性の能楽師が認められていなかった。お母様は、嫁いで来たのではなくその家の娘である。幼い頃にはお能の舞台に立っていたのだが、ある程度の年齢になると舞台には立てなくなる、そういうことを経験してこられたので、「娘もどこかで諦めなければならないことになるのかな。」と思ったのだそうだ。けれど、時代は変わり、お姉ちゃんにも道が開け、彼女は迷うことなくその道を突き進んできた。その道を諦めざるを得ず裏方に徹してきた母が、能楽師となった娘と並んで嬉しそうに挨拶しているのを見て、なぜか私まで感無量になってしまった。彼女が舞ったのは「嵐山」の勝手明神。彼女が舞うと、ぽわっ、ぽわっと桜の蕾がほころんでいき、ああ、もう見渡す限りの満開の桜、むせそうなぐらいの春の吐息、ほろ酔い気分の観客。技術に男女はないとは思うけれど、能楽は女流能楽師を認めて本当に良かったと思う。
さて、弟君が出られた「翁」という演目は、「能にあって能にあらず」と言われる、神事的な演目で、天下泰平、国土安穏、五穀豊穣を祈る儀式的な意味合いがある。お正月の初会の最初の演目はこれと決まっている。弟君が舞うのは「千歳」という、翁が出てくる前の露払いの役。彼の「千歳」を観るのはこれが2回目で、初めて観た時に素人の私でさえ「ああ、彼は天才なのだ」とわかり鳥肌がたった。彼が前に進み出ると、3Dの映画を観ているように音もなく舞台を越えて宙に迫り出してくる。その圧は思わずのけぞるように体を引いてしまうほど。ただの露払いではなく、邪と不浄なるものを退け清澄な結界を張る勇ましい役どころで、晴明ファンとか阿修羅ファンなら、陶酔すること間違いなし。ふわっと舞い上がって四角まで邪悪なるものをシャッ、シャッ、シャッとやっつけて最後スタッと降りてきての一糸乱れずという凄技の神様付きS Pだと思って欲しい。(能楽協会がどういうかは分からんが)
ママの後ろに隠れはにかんでいた彼が、人を超えた存在を演じられるようになった。遠縁のおばさまもどき、涙腺崩壊。日々の稽古だけではない。「翁」の舞台に立つには、数日前から精進料理しか口にできず、別火の料理を清められた別室で食べ、1月の寒い朝に水垢離もして精進潔斎せねばならないのだ。十代の男子が何日も牛も豚も羊も食べられないのはなかなか辛いことだろう。私だって、そんなことが出来るなら、とっくに3キロ痩せている。
覚悟が違う。そうせざるを得なかったし、天才だったにせよ、彼はどこかで腹を括ったのだろう。私も今年は、「書く」ということに腹を括ろうと思う。覚悟を決めてかかって今年こそ抜かりなく。
と、ここまで書いて、ハッと気がついた。私、ウールのコートを着て行ってしまったよ。羊だわ。ごめん。せっかくの精進潔斎を。観る側として礼を尽くすことも出来なかった。ほれ、そういうとこ、と神様の声が聞こえる気がする。抜かりなく、抜かりなく、今年こそ抜かりなく!
舛添雅美
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