2025年4月21日 配信
朝の通学路。風はまだ冷たく、海から吹き上げてくる潮の匂いが鼻につく。
一星は、東京湾に面した中学校へ向かっていた。
通称“W湾中(わんちゅう)”正式名称は「江東区立湾岸第二中学校」。
タワマンと倉庫が入り混じるこの地域では、地震が起きたら津波の被害が真っ先に心配される。
「お前、また見たんだろ?あの動画」
「マジで7月5日、来るって…でっかい津波」
「タツキって人が言ってんだよ。前の地震も当てたってさ」
一星は席につく前に、ちらっと声の方を見た。
そこにいたのは、親友の高橋 翼と、スマホを見せながら語る阿部 快斗。
その横には、腕を組んで冷ややかに見つめる橘 未来の姿があった。
「はいはい。また都市伝説。で、今回は“フィリピン沖の噴火→日本に津波”のパターンね」
「未来、お前マジつまんねぇよ。信じた方がドキドキして楽しいだろ?」
「楽しい?じゃあ本当に来たら、どうするつもり?」
その言葉に、翼の笑顔が一瞬止まった。
一星は、席につきながらその会話を横耳で聞いていた。
心の奥がざわつく。
“7月5日”という日付。それが、父の話していた“1999年7月”と重なって見えた。
放課後、自宅マンションに戻った一星は、夕飯の時間になってもぼんやりしていた。
テレビではニュースキャスターが「地震保険料が再び値上がり」という話題を読み上げている。
「いっせー、ご飯冷めるわよ」
母の佳代が声をかける。
その瞬間、父・真人の箸がピタリと止まった。
「……お前、それ、学校で流行ってんのか?」
「うん。地震とか、津波とか。予知夢が当たったとか言ってて」
真人は少し考え込んだあと、苦笑した。
「そうか……懐かしいな。俺が高校生の時は、“1999年に地球が終わる”って言われてたんだよ」
「ノストラダムス、でしょ」
「そうそう。お父さん、それ本気で信じてさ。勉強なんて意味ないって思って、逃げたかったんだ。逃げ道だったんだよ、あの噂が」
母が苦笑いしながら言った。
「当時は『地球最後の日はカップラーメン食べて死のう』なんて言ってたのよ、この人」
一星は俯いたまま、箸を持った手に力が入った。
笑い話のようでいて、胸の奥に残ったのは、不思議な重さだった。
もし、本当に来たら。
もし、本当に終わる日だったら。
一星は、ご飯茶碗を見つめたまま口を開いた。
「……でもさ、当たんなかったんでしょ?ノストラダムスの予言って」
真人は箸を置いて、椅子の背にもたれかかった。
「あぁ、当たらなかった。だけど、あの頃は本気で信じてた人、けっこういたんだよ。テレビも雑誌もこぞって特集してたしな」
「なんて言ってたの?」
「『1999年7の月に空から恐怖の大王が降ってくる』っていう予言だよ。フランスの昔の占星術師、ノストラダムスって人が書いた“百詩篇”の一節。未来を詩の形で残したってことで、世界中の人が注目してた」
一星は顔を上げた。
「それで、お父さんは“地球が滅ぶ”って思ったの?」
「うん。当時のテレビなんて“巨大隕石が落ちる”とか“核戦争が起こる”とか“新しいウイルスで人類が滅びる”とか、そんな映像ばっかりだったからな。子どもだった俺には、それがすごくリアルに感じた」
母の佳代が口を挟む。
「そうそう。『高校行っても意味ないから、旅に出たい』とか言ってたのよ。もうアホかって思ったわ」
「まぁ、逃げたかったんだよな、現実から」
真人の声は、少しだけ沈んでいた。
「本気で信じてたってより、そう信じてれば、何もしなくて済む気がしてた。こわい未来に向き合わなくていい理由が欲しかっただけなんだよ」
しばらく沈黙が落ちた。テレビの音だけが部屋に流れている。
「だからさ、一星。噂を信じるなとは言わないけど、噂に“逃げ道”を探すのはやめた方がいい」
真人の目は真っすぐだった。ふざけた調子はそこになかった。
続く
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