2025年5月11日 配信
SNSにはまだ「7月5日Tシャツ」の自撮りや「終末弁当チャレンジ」動画が溢れている。
「またその話?」
キッチンから母・佳代が笑うように言った。エプロン姿のまま、手には缶詰とLEDライトを持っている。
「ちょうどいいから、アンタもこっち来なさい。避難袋の中身、もう一回チェックするわよ」
開けると、中には非常食、水、簡易トイレ、モバイルバッテリー、スリッパ、乾電池……すべて整然と並べられている。
「これ、毎年3月と9月に見直してるけど、今年は念のためもう一回。7月のあれ、ちょっと気になるじゃない?」
一星が目を丸くする。
「え、まさか……お母さんまで信じてるの?」
「まさか。あんなの本気にしてたら、あたしパニックで仕事できないわよ」
佳代は笑って首を振った。
「でもね、あれだけ騒がれてると“信じる人が動く”のよ。信じてなくても、準備はしておくのが“母親”ってもんなの」
一星は黙って、防災リュックの中の非常食を一つ手に取った。アルファ米のパッケージに「賞味期限:2027年」とある。
「……学校の友達でさ、親が震災経験してる子がいて。
Tシャツとかミームとか、めっちゃ怖がってたんだ」
「……うん。分かるよ。あたしも、あの日のことはまだ覚えてる」
彼女の声が少しだけ低くなった。
「東日本のとき、あんたまだ小さかったよね。
でも、私はニュース見ながら泣いてた。現地にいる親戚の名前がなかなか確認できなくて……」
缶詰を片づけながら、彼女は少しだけ目を細めた。
「だから、“備える”って、あたしにとってはもう習慣なの。
誰が笑ってても、どうせ“来るかもしれない”んだから」
「でも、怖くないの?」
「怖いよ」
佳代は初めて、真っ直ぐな目で息子を見た。
「だって、自分が怖がってる間も、あんたとひよりが普通に生きてるじゃない。
その“普通”を守るのが私の仕事。
そのためなら、缶詰100個でも、バッテリー5個でも、買うよ。笑われてもね」
その言葉に、一星の胸の奥が少しだけ熱くなった。
──SNSで拡散される「おもしろ防災」じゃない。
──本当の“備え”って、誰かを守りたいって気持ちから始まるんだ。
「……僕も、避難袋ひとつ持っとこうかな」
「いいじゃない。自分で詰めなさい。
非常食、好きなの選んでいいよ。ほら、プリン味のもあるし」
佳代は冗談めかして笑った。
その時、妹のひよりがふらっとやってきた。
「ねえ、7月5日って、ほんとになんかあるの?」
無邪気な声に、二人は少し黙った。
佳代は優しく笑って、ひよりの頭を撫でた。
「大丈夫。何があっても、お母さんとお兄ちゃんが守るから」
ひよりは「ふーん」と言いながら去っていった。
その背中を見つめながら、一星は自分の中で何かがゆっくりと形を変えていくのを感じていた。
不安を笑うのではなく、不安と共に立つこと。
母は、それを“日常”としてやっていた。
コメント
0 件