2025年5月11日 配信
夕方の教室は静まり返っていた。
帰りの会でざわめいていた空気は消え、窓の外からは遠くの波音と、湾岸を走るトラックの音だけがかすかに聞こえる。
星野一星は、机の下に落ちていたプリントを拾い上げて、ふうっとため息をついた。
声の主は、小山先生だった。資料を手にしたまま、教室の入り口に立っていた。
「はい。プリント落としちゃって、すぐ帰ります」
「焦らなくていいよ。俺も資料室に行くついでに寄っただけだしな」
小山先生はそう言って、窓際へ歩いてきた。
カーテンを軽く押しのけて、空を見上げる。
「……夕焼け、きれいだな。あのビルの向こう、ららぽーとのあたりか」
「はい。放課後、よくあの辺りに寄ってます。ぐるり公園とか、防災広場とか」
一星は窓際に並び立ち、街の景色をぼんやりと見つめた。
「先生……噂、やっぱり気になりますか?」
一星の声は、思ったより小さく出た。
「2025年7月5日か。気になると言えば気になる。けど、信じてるわけじゃないよ」
小山先生は腕を組んで、少し笑った。
「ただな、“何かが起こるかもしれない”って、どこかで思っちゃう気持ちは、正直ある。
あのときと似てるんだ、1999年。ノストラダムスの予言ってあっただろ?」
「“世界が滅びるなら、勉強しなくていい”って」
「お父さんだけじゃないよ。俺も同じだった」
先生は少しだけ目を細める。
「塾帰りに空を見上げて、“本当に終わるのかな”って思ってた。
そういう時って、信じたくなるんだよ。“意味がない”って。
そう思えば、いまの不安や努力から逃げられる気がするから」
一星は黙って聞いていた。
「でも、世界は終わらなかった。次の日もちゃんと来て、受験も、入学式も、仕事も待ってた。
何も変わらなかった。変わったのは、“自分が何をしてたか”だけだった」
窓の外を見つめたまま、小山先生が言った。
「だからこそ、今できる準備はしておいたほうがいい。
怖くても、不確かでも、それでも逃げないってことが、結局、自分を守ることになるんだと思う」
しばらく沈黙が流れた。
一星は、ゆっくりと先生の方を見た。
「……僕、ちゃんと備えます。父さんみたいになりたくないし。
逃げないで、生き残りたい」
小山先生は、笑った。
「それでいい。それが一番、“予言”に勝つ方法だ」
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