新刊
2024年8月7日 配信
クリエイティブメディア出版・キャスティング局です。 「核兵器が無い平和な世界を希求して」 新刊リリースです。 『キノコ雲の下からさあもう一度』:ナガサキ・被爆家族の願い(著)浦上原天 ※当時の貴重なお写真も多数収録 8月6日「広島原爆の日」そして、8月9日「長崎原爆の日」に合わせて新刊発売となります。Amazon最新リリースランキング「9位」。Amazonランキングも売れ筋ランキング「36位」でスタート。好発進となりました。 *新刊情報 *タイトル:『キノコ雲の下からさあもう一度』:ナガサキ・被爆家族の願い(改訂版) *浦上原天(著) *定価:1000円+税 *Kindle Unlimited […]
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2025年7月14日 配信
ここは、被爆遺構の浦上天主堂の側です。昭和27年8月に筆者の父が撮った写真です。 当時、筆者は3歳8ヶ月、向かって右に座っているのは親戚の兄さんです。 被爆前の浦上天主堂は、原爆落下中心地から北東に約500㍍離れた所にありました。 信徒たちの労働奉仕と献金により、レンガと石造で、双塔を造り2個の聖なる鐘を取り付け着工から30年の歳月をかけて大正14年に被爆前の姿になったそうです。 現在の浦上天主堂も、同じ場所に鉄筋コンクリート造りで建て直され、その後外装を赤煉瓦造り、窓は全てステンドグラスにして、ほとんど被爆前の姿に復元されています。 昭和20年8月9日11時2分原爆炸裂。その熱線と爆風で東 […]
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2025年5月21日 配信
この写真は、著者(浦上原天)が1歳7ヶ月の時(昭和25年6月頃)に、父親が撮った写真です。場所は正に長崎原爆(ファットマン)が、そのまま落下すればここに落ちたという原子爆弾落下地点です。現実の原子爆弾は、この地点の上空約500㍍の空中で爆発しました。今はそこは公園になっています。筆者達当時の子ども達は、そこを原爆公園と呼んでいました。 筆者は何だか覚えているのですが、写真に写っているように、盛り土の上に何か書かれている木製の太い墓標の様なものが建っている景色でした。実際は『原子爆弾落下中心地の標』と書かれた太い木の墓標が建っていました。周囲は草が生い茂っていました。現在の長崎原爆資料館が建 […]
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2025年3月21日 配信
これは、昭和25年(1950年)の正月の時の写真です。長崎市の原爆公園(現在の原爆落下中心地公園)で、筆者の父が撮ったものです。写っているのは筆者の母と叔父(母の弟)と筆者で、背後に写っているのは、おそらく最初に建てられた木造モルタル造りの原爆資料館です。 その内部空間は小さく、入り口で中をぐるっと見渡すと全てを観られる様な造りだったと思います。 まだ幼児だった筆者の記憶では、中には何だか訳の分からない物や写真が置いてあったり壁に掛けてあったりしていました。1人で入るには少々恐い建物という印象でした。しかしその展示物は言語に絶する大惨事の遺品類だったのです。 この公園の直ぐ側を流れる下 […]
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2025年2月21日 配信
日本被団協様のノーベル平和賞受賞を心底より祝福いたします。 筆者は長崎の被爆者から生まれた被爆2世として何だかホッとし、それでも誰かが核兵器を使ってしまうのではないかという心配事を拭い去れないでいます。 筆者の父の最初の妻・子は、長崎原爆落下中心地から約750㍍の地点で被爆し、8月9日当日に悲惨な姿で即死及び絶命しました。父は原爆落下中心地から約2㎞の工場内で被爆し、父だけが工場内で只1人生き残り、被爆当日に妻子の元に戻り、妻子の遺体の処理に当たり、その後戦後を生き延びました。父の住み処・筆者の実家は原爆落下中心地から約270㍍の所にありました。直接被爆者の人達は、想像を絶する途方もなく耐 […]
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新刊紹介
2024年12月1日 配信
この写真は、昭和34年(1959年)頃に撮った写真です。写っている人物は筆者の父(謙二)です。 背景は被爆後に建て直された浦上天主堂の正面です。カメラのシャッターを押したのは小学生だった筆者です。 浦上天主堂は爆心地から北東約500㍍の位置にあります。 父が寄りかかっているように観える向かって左側に写っている石の彫刻は、原爆の熱線で焼け焦げた聖人の頭部の像です。 それはもともとこの位置にあったのか爆風で吹き飛ばされてこの付近に転がり天主堂再建時にこの位置に置かれたのかは筆者には分かりません。この付近でも大勢の市民が被爆し他界しました。 父の最初の家族も、ここから概ね北西に約500㍍の当時の疎 […]
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新刊紹介
2024年9月11日 配信
この写真は、昭和25年(1950年)の多分秋に、自宅前で父が妻(筆者の母)を撮った写真である。自宅とは原爆落下中心地から直線距離で約260㍍離れた国道沿いの場所にあった。 疎開する前に父が暮らした家が熱線と爆風で消えてなくなり、その跡地に、廃材でとりあえず6畳一間の家を建て、新しい生活を始めた処である。そしてここが筆者の実家である。その家は写ってはいないが、庭の無い玄関から入ると2畳ほどの土間があり、土間の右側に6畳の居室、土間の左側に台所と洗面所と汲み取り式のトイレがあった。雨の日は雨漏りがした。雨戸は隙間や穴だらけで、手前の障子に隙間や穴から差し込んでくる外の景色が逆さまに写って不思議 […]
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新刊紹介
2024年8月22日 配信
平和祈念像が完成したのは昭和30年(1955年)、私が小学校1年生の頃だったと覚えている。丘の上の広々とした平和公園に、その銅像はできあがった。当時の子ども達の目には、何の銅像か何を意味しているのか解らなかった。筋骨隆々とした髪の長いオジサンが変な格好をして座り白い粉を吹いている銅像にしか観えなかった。付近を通りかかる大人に「こいは何の銅像ね?」と尋ねても「さぁ何やろか?」とか「平和ば祈る銅像たい!」というくらいの返事しかなかった。どうも納得できなかった。 銅像ができあがると、近隣に住む子ども達や私の仲間達も放課後や休日などにそこに押しかけて行き、台座の岩壁をよじ登り銅像の足下に […]
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