2025年2月21日 配信
日本被団協様のノーベル平和賞受賞を心底より祝福いたします。
筆者は長崎の被爆者から生まれた被爆2世として何だかホッとし、それでも誰かが核兵器を使ってしまうのではないかという心配事を拭い去れないでいます。
筆者の父の最初の妻・子は、長崎原爆落下中心地から約750㍍の地点で被爆し、8月9日当日に悲惨な姿で即死及び絶命しました。父は原爆落下中心地から約2㎞の工場内で被爆し、父だけが工場内で只1人生き残り、被爆当日に妻子の元に戻り、妻子の遺体の処理に当たり、その後戦後を生き延びました。父の住み処・筆者の実家は原爆落下中心地から約270㍍の所にありました。直接被爆者の人達は、想像を絶する途方もなく耐えがたい体験をされ、核兵器廃絶を最重要課題とされたのだと思います。 しかし人類が核兵器を手にしてしまった戦後に生まれた筆者としては、果たして人類は核兵器を廃絶できるのだろうかと心配になってしまいます。
核兵器廃絶は理想であり目標だと思いますが、現実の世界を観ると、核兵器やそれを運び目的を果たそうとするミサイルを保有する国は減るどころか増えつつあるのが現実だと思います。 人類は、たとえ人殺しの極限たる道具と言えども、1度手にした道具は手放すことはないように観えて仕方がありません。 ヒトの内面には神と悪魔が同居し、地球上の弱肉強食の頂点にあり、自分と同じように生きている動物や植物や菌類の命を絶ち、食らいながらしか生きて行けず、人間同士も熾烈な生存競争を繰り広げているように思います。そのような人間が創る人類社会、そしてその仲間である核兵器保有国が、核兵器廃絶を実現できるのだろうかということを考えますと、疑心暗鬼の気持ちになってしまいます。
一国がそれを開発して手にすれば、それに対抗してその敵対国が不安に苛まれ必死になってそれを持つに至り、またそれを新たに手にした国に不安や恐れを感じた国もまたそれを手にするに至るという深刻な“いたちごっこ”が続いているように観えます。しかしだからといって黙っていて良いのか? それはいけないと思います。
核兵器廃絶は理想であり目標とすべきだと思います。理想や目標無しには人はどの方向にも動けないと思うからです。その途方もない努力の中で、悪魔の道具を絶対に使わないこと・使わせないこと! 絶対に使えないと思うこと・思わせること! それを使ったら使った自分も必ず死滅すると心底より悟ると、持っているだけでも膨大な経費がかかる無用の長物を捨て去る気持ちにもなるかもしれません。 いわゆる核抑止論は、そういうせめぎ合いの中でのバランス感覚に期待するところが有る様に思われます。ここでも、高性能なAIの開発が急速に進んでいる現代社会、自国開発の自慢のAIも駆使して、勝利できると確信した確信犯やご乱心の殿や愉快犯や、そして人間を越えたAIそれ自身が、核のボタンを押してしまう危険性があるように思ってしまいます。
戦争放棄・不戦の誓い、真に善良で理想だと思います。しかし不戦の誓いを立てようものなら、それをいいことに逆にジワジワと浸潤してくる国家が現れないでしょうか。
『正義なき力は暴力、力なき正義は無力』とはパスカルが言った言葉だそうですが、暴力を抑える、あるいは思い止まらせる為には、力も必要だという力学も忘れてはならないのではないかと思います。必要悪としての腕力を持ち合わせていなくては暴漢から家族や大切な人を守ることもできないのではないかと思います。話し合えば解りあえるとは言ったものの、話し合う時間を持てない場合や、確信犯やご乱心の殿や愉快犯から身を守るにはどうしたら良いかという問題は常にあると思います。八方塞がり・四面楚歌のようなジレンマの中、いったいどうすれば・どうあれば良いのでしょうか?
アメリカの精神科医のLeon Salzman氏は、その著書『THE OBSESSIVE PERSONALITY(強迫パーソナリティ)』成田善弘、笠原嘉 訳 みすず書房 1998年 の中で、次のように言っています。『不安の源は世界中到る所に存在し、人生から永久に除去することはできない。安全と安定の保証は無いと理解すること。完全と超人間的行為を放棄し、自らが限界のある人間であることを受け入れる。むしろこのことが自分の資質と潜在能力の充分な活用を可能にする』と。このことはヒトの内面にも、人間社会の間にも、国家間にも言えるのではないでしょうか。国連の安全保障常任理事国自身が、隣国を侵略してしまったのです。そこで核爆発を起こさないためにはどうしたら良いのでしょうか。地球上に絶対的安全保障は無いと悟る方が良いのではないかと思います。
核兵器廃絶を必ず理想と目標に掲げ、保証は無いが核抑止に全力を尽くす、このことは途方もない現実的働きかけだと思うのですが、筆者は恒久平和の確信を持てません。途方もない心的エネルギーを使い続けなければならない永遠のヒトの課題のような気がします。尽きることの無い自助・共助努力無しには自らの安全も保てないように思います。
そのために、まさに広島の〈広島平和記念資料館〉と長崎の〈長崎原爆資料館〉、及び、広島と長崎の〈追悼平和記念館〉こそが、核兵器を使うことを押し止める力になる(なっている)と思うのです。そこは真に核抑止力の源泉だと思います。
広島平和記念資料館と長崎原爆資料館、及び、広島と長崎の追悼平和記念館という現実に在る機関には誰でも脚を運ぶ事ができます。世界中の政治家を志す皆様、科学技術者を志す皆様のみならず、世論を創り上げる我々世界中の全ての人達は、被団協の人達の言葉にも耳を澄まし、広島平和記念資料館と長崎原爆資料館、及び、広島と長崎の追悼平和記念館を訪れることが必要ではないだろうかと思います。
2025年02月20日
浦上原天
6 件
真の平和 核のない世界 人類の永遠の課題だと私も思っています
今もなお戦争が絶えない地球
日本で生活をしている私ですが、この平和は当たり前ではないということが悲しくもあります
この戦争の延長線上に、核があること
これもまた、現実なのが悲しいです
核兵器の恐ろしさ戦争の恐ろしさ、1人でも多くの人に、心に刻んでほしい
「きのこ雲の下からさあもう一度」
読んでいて、苦しくなってしまうほどの内容ではありましたが
核の現実を心に刻める書籍だと私は思います
日本だけではなく、全世界の人が読めるようにしてもらいたいです
そして、核のない世界を現実にしてほしいと、願う人が1人でも多くなることを願ってます
ゆみゆみ様、コメントを真にありがとうございます。
ゆみゆみ様のコメントの内容の通りだと思います。私も心に響きました
ありかどうございます。
日本被団協様がノーベル平和賞受賞をされことは、いかに人類にとって核兵器が脅威であるかという再認識をさせるものであったと同時に一つの大きな前進でもあると思います。
現代の戦争は常に背後には核の存在、核を使用する可能性があるという恐怖が付きまといますが、それが核戦争にまで発展した場合、戦争当事国はもちろんのこと、我々の生活もすべて破壊しつくされて消えてしまう、
しかも簡単に綺麗に消えるわけではなく、被爆されて亡くなった方々はどれほどの苦痛を感じたのか、また仮に生き残ったとしても、その後の現実は「きのこ雲の下からさあもう一度」という本で生々しく記載があるように耐え難い心身の苦痛、地獄のような状況を味わう可能性も大いにありうると思います。
そんな恐ろしい兵器を手にする国がどんどん増えれば以上の恐ろしい状況が現実となる可能性もどんどん高まると思います。
そこでの今回のノーベル平和賞受賞は大いに意味のあることだと思います。ですが、核を一度手にしてしまった後で放棄は絶望的である現実があります。
その難問と今も人類は向き合っているわけですが、今後の解決のヒントの一つとして、世界中のより多くの人達に核の恐ろしさ、他人事ではなく自分たちにも直接関係する大きな問題であるということをわかってもらうことが大事だと感じます。
そのために誰でも足を運べる広島と長崎の原爆の資料館、追悼平和記念館は一つの大きな存在だと思います。
日本被団協様がノーベル平和賞受賞をされことは、いかに人類にとって核兵器が脅威であるかという再認識をさせるものであったと同時に一つの大きな前進でもあると思います。
現代の戦争は常に背後には核の存在、核を使用する可能性がある という恐怖が付きまといますが、それが核戦争にまで発展した場合、戦争当事国はもちろんのこと、我々の生活もすべて破壊しつくされて消えてしまう、しかも簡単に綺麗に消えるわけではなく、被爆されて亡くなった方々はどれほどの苦痛を感じたのか、また仮に生き残ったとしても、その後の
現実は「きのこ雲の下からさあもう一度」という本で生々しく記載があるように耐え難い心身の苦痛、地獄のような状況を味わう可能性も大いにありうると思います。そんな恐ろしい兵器を手にする国がどんどん増えれば以上の恐ろしい状況が現実となる可能性もどんどん高まると思います。そこでの今回のノーベル平和賞受賞は大いに意味のあることだと思います。ですが、核を一度手にしてしまった後で放棄は絶望的である現実があります。その難問と今も人類は向き合っているわけですが、今後の解決のヒントの一つとして、世界中のより多くの人達に核の恐ろしさ、他人事ではなく自分たちにも直接関係する大きな問題であるということをわかってもらうことが大事だと感じます。そのために誰でも足を運べる広島と長崎の原爆資料館、追悼平和記念館は一つの大きな存在だと思います。
核は人類にとって重大な問題をはらみ、矛盾をかかえた扱いにやっかいなものです
ましてや世界で唯一それを使われた日本人にとっては核に対する意識は複雑です
そのあたりの心境を作者はたくみに表現していてなかなか興味深く読ませていただきました
『正義なき力は暴力、力なき正義は無力』とはけだし名言である。
政局、経済の見通しに閉塞感を覚え、正義も力もその存在感が実感出来ない日常。
そのような中で日本原水爆被害者団体協議会様のノーベル平和賞の受賞が眩しく、同時にこれまでとこれからの道のりに頭の下がる思いである。
さて、人類は核兵器を廃絶出来るのか?
これは子供の頃、唯一の被爆国たる我が国の歴史を学んだ時から度々頭に浮かぶテーマである。その度に思考が堂々巡りして終わってきたが、核兵器廃絶を必ず理想と目標に掲げ、保証は無いが核抑止に全力を尽くす、という浦上先生の言葉に救われた。
もう一つ、平和を語る上で心に残っている文章がある。皇女敬宮様 『世界の平和を願って』、この作文を綴られたのも核抑止力の源泉の一つ、広島平和記念資料館を修学旅行で訪れられ、被害の実態をご覧になったのがきっかけであった。
原発の被害、後遺症、その後の心の傷については『キノコ雲の下からさあもう一度』にも詳述されているが、多くの人々にとっても実態を知り、知れば知る程、我が身に置き換え抑止力になるようにと願って止まない。
丁度『クリスマス・キャロル』で冷酷無比な守銭奴だったスクルージが自身が薄給でこき使う従業員の病弱な末子ティムの未来を知り、その早過ぎる死を未然に防ごうと立ち上がり、改心したように。
知ることから平和が始まる。