2025年3月21日 配信
これは、昭和25年(1950年)の正月の時の写真です。長崎市の原爆公園(現在の原爆落下中心地公園)で、筆者の父が撮ったものです。写っているのは筆者の母と叔父(母の弟)と筆者で、背後に写っているのは、おそらく最初に建てられた木造モルタル造りの原爆資料館です。
その内部空間は小さく、入り口で中をぐるっと見渡すと全てを観られる様な造りだったと思います。
まだ幼児だった筆者の記憶では、中には何だか訳の分からない物や写真が置いてあったり壁に掛けてあったりしていました。1人で入るには少々恐い建物という印象でした。しかしその展示物は言語に絶する大惨事の遺品類だったのです。
この公園の直ぐ側を流れる下ノ川の川面に面した石垣は、川面側に異様に膨らんでいました。原爆炸裂の瞬間に生じた音速を超える強烈な衝撃波により、公園全体にわたり大地が約30㎝沈下したようです。
その証拠が石垣の川面側への出っ張り(膨らみ)だったと思います。その下ノ川橋近くの川面側に出っ張った石垣の上から釣り糸を垂らして釣りをしている近所の小中学生やオジさん達を、筆者は何度も見かけていました。筆者は何だか覚えているのですが、この原爆資料館が建てられる前も後も、筆者の育ての親である義理の祖母や父に手を引かれ、時にはゴザや水筒を持って何度も連れて来られ、この公園で遊びまわり日向ぼっこをしていました。ここは春から秋にかけて草ぼうぼうで、バッタ類やトンボ等を追いかけ回していました。そればかりか、公園の周囲の至る所、木が無く草ぼうぼうの空き地と残骸と化した遺構が広がり、公園に面した山々の斜面にも木が無く、草ぼうぼうでした。その眺めは原爆炸裂時の熱線と衝撃波で何もかも発火し吹き飛ばされてしまった痕跡だったと思います。
その後、昭和30年に、下ノ川を渡って丘の上に大きな鉄筋コンクリート高層造りの長崎市原爆資料館が建てられ、公園内のこの原爆資料館は無くなりました。
原爆落下中心地はこの写真撮影地点の直ぐ近くにあり、当時そこには木製の墓標の様な大きな柱が土を盛った土台の上に立っていました。その上空約500㍍の空中で、広島原爆とは異なる構造の長崎原爆が炸裂しました。正にこの写真を撮った場所は爆心地と言える所です。
今は、ここから北に約100㍍離れた所に独特の座位姿にて右手で天を指し左手で地上に平和をという祈りを込めた銅像が建っている平和公園があります。 そしてここから北東に約500㍍行くと、当時遺構が残っていた浦上天主堂があります。その遺構の一部は、この原爆落下中心地点やこの写真撮影地点の直ぐ近くに移設され今も残っています。また別の一部はこの公園の近くにある長崎市原爆資料館の中に他の遺構と共に保存され公開されています。またここから西に500㍍離れた所に、今でも校舎の一部が遺構として残されている城山小学校があります。筆者はそこに入学し、この爆心地公園内や側を歩いて通学していました。
この写真に写っている母は当時の長崎市民病院に肺結核で長期入院中で、正月の外出許可が出て、ここから約200㍍の処にある自宅に帰宅し、父や尋ねて来た叔父と共にこの原爆公園に来たのだと思います。叔父は軍人で戦時中は大村基地で飛行教官をしていて、いよいよ自分も特攻隊として出撃する日も近いと覚悟していたそうです。父にも召集令状が届き、疎開先での妻子の安全を図った上で自分も集合地に行く予定を立てていたそうです。 ところが原爆で召集令状も含め何もかも吹き飛んでしまい、父の最初の妻子も全滅、叔父と同じく軍人だった父の弟も海外で戦死、その後、原爆症に苦しんでいた父を看病に来ていた父の弟の妻と父は再婚し、それがこの写真に残る筆者の母です。叔父も終戦により特攻隊として出撃することがなくなり「生き残ってしまった」と言っていました。今は筆者の母も父も叔父もすでに他界しています。
被爆2世である筆者は、自分の宿命、人生の初期条件というものを感じます。
22025年2月21日
浦上原天
2025年02月20日
浦上原天
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