2025年5月21日 配信
この写真は、著者(浦上原天)が1歳7ヶ月の時(昭和25年6月頃)に、父親が撮った写真です。場所は正に長崎原爆(ファットマン)が、そのまま落下すればここに落ちたという原子爆弾落下地点です。現実の原子爆弾は、この地点の上空約500㍍の空中で爆発しました。今はそこは公園になっています。筆者達当時の子ども達は、そこを原爆公園と呼んでいました。
筆者は何だか覚えているのですが、写真に写っているように、盛り土の上に何か書かれている木製の太い墓標の様なものが建っている景色でした。実際は『原子爆弾落下中心地の標』と書かれた太い木の墓標が建っていました。周囲は草が生い茂っていました。現在の長崎原爆資料館が建っている丘も当時は木が1本も無く、草が生い茂りバッタなどの昆虫がいました。原爆公園の周辺にも長崎原爆資料館が建っている丘にも、当時は、家がまばらにしか建っていませんでした。原爆公園には背の高くない木が何本かありました。被爆後に植えられた木でした。思い起こしてみますと、当時の被爆長崎市浦上地区には木がありませんでした。爆心地に面する山の斜面にも木がありませんでした。原爆炸裂による熱線と爆風で、木を含む全ての植物も発火し吹き飛ばされていたのだと思います。
筆者の家は、ここから南に約260㍍の所にあったので、当時の筆者は祖母や父親にしばしばここに連れて来られ、ゴザの上で弁当を食べたり昼寝をしたり、バッタなどの昆虫を追いかけていました。この写真が撮られた約5年前に、この場所を中心に地獄の大惨事が起こったことも何も知りませんでした。原爆被爆を生き延びた父親は、この場所を何回も通って親戚の家や職場などに行っていたようですが、その父親も祖母も当時は残留放射能のことを全く知らなかったようでした。
現在、高齢者になっている筆者は、この場所と大惨事を、自分の命と人生の原点だと思っております。
2025年5月21日
浦上原天
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