2025年7月14日 配信
ここは、被爆遺構の浦上天主堂の側です。昭和27年8月に筆者の父が撮った写真です。
当時、筆者は3歳8ヶ月、向かって右に座っているのは親戚の兄さんです。
被爆前の浦上天主堂は、原爆落下中心地から北東に約500㍍離れた所にありました。
信徒たちの労働奉仕と献金により、レンガと石造で、双塔を造り2個の聖なる鐘を取り付け着工から30年の歳月をかけて大正14年に被爆前の姿になったそうです。
現在の浦上天主堂も、同じ場所に鉄筋コンクリート造りで建て直され、その後外装を赤煉瓦造り、窓は全てステンドグラスにして、ほとんど被爆前の姿に復元されています。
昭和20年8月9日11時2分原爆炸裂。その熱線と爆風で東洋一の壮大な浦上天主堂は一瞬にして倒壊し、かろうじて建っていたのはこの部分だけになってしまいました。 その時、中にいてミサの準備をしていた神父様と信徒計約30名は爆死され、浦上地区に住んでいた信徒約12000名のうち約8500名もの人々も爆死されたそうです。 この写真に写っている浦上天主堂遺構の一部分は現在原爆落下中心地公園に、もう一部分は原爆資料館内に移されています。
筆者は、もの心の付かない頃からこの浦上天主堂の遺構の場所に、祖母や父からしばしば連れて来られ、遺構の内部や外側で遊んでいたようです。 写真に写っている当時もよく祖母と遊びに来て、そこで拾った白い石で遺構の煉瓦に絵を描いたり、鬼ごっこをしたりして遊んでいました。 小学校に入学してからはクリスチャンの友だちとしばしば毎週日曜日に浦上天主堂の遺構の横に建てられた木造の建物に入り、友だちの言うとおりにしながらミサに加わっていました。
私はクリスチャンではありませんでしたが、神父様は私もクリスチャンの友だちも何ら区別なく温かく処遇してくれました。
その当時(昭和26年(1951年)~昭和29年(1954年))は、原爆落下中心地公園から浦上天主堂までの道筋の周囲には家がまばらにしかなく、ほとんど草ボウボウの景色でした。
当時私は、自分が生まれる約3年前に、そこで大惨禍が起こったことを全く知りませんでした。
育ての親である祖母も、最初の家族が全滅し自分も直接被爆した父も、筆者が高校生になっていろいろなことを詰め寄って父に質問するようになるまで原爆の話を筆者にしませんでした。
2025年7月14日
浦上原天
『キノコ雲の下からさあもう一度』:ナガサキ・被爆家族の願い(著)浦上原天
コメント
0 件