2024年9月11日 配信
この写真は昭和25年(1950年)の多分秋に、自宅前で父が妻(筆者の母)を撮った写真である。自宅とは原爆落下中心地から直線距離で約260㍍離れた国道沿いの場所にあった。
疎開する前に父が暮らした家が熱線と爆風で消えてなくなり、その跡地に、廃材でとりあえず6畳一間の家を建て、新しい生活を始めた処である。そしてここが筆者の実家である。その家は写ってはいないが、庭の無い玄関から入ると2畳ほどの土間があり、土間の右側に6畳の居室、土間の左側に台所と洗面所と汲み取り式のトイレがあった。雨の日は雨漏りがした。雨戸は隙間や穴だらけで、手前の障子に隙間や穴から差し込んでくる外の景色が逆さまに写って不思議できれいだった。ピンホールカメラの画像の様だった。筆者が物心ついた頃は、部屋と外を隔てる物は雨戸と障子だけだった。
写っている母は、この時は未だ肺結核療養中で入院先の市民病院から外出許可が出て帰宅し、父が写真を撮った。母の背後には未だ拡幅も整備もされていない国道が走り、その向こうには段差で観えていないが市電の路線がある。その市電を右側に約50㍍行くと墓標が建っていた。その直ぐ近くを走行中の電車が被爆し車体は原形を留めず、乗客達も熱線と爆風により瞬時に火傷し吹き飛ばされ線路脇の溝などで折り重なって他界された。その墓標だった。そこは原爆落下中心地から約230㍍の処だった。
向かって母の右側背後には2階建ての木造家屋が観える。それは国鉄職員が住む鉄道官舎である。母の左側背後にはぼやけているが、三菱球場の廃墟とその向こうに学校の体育館らしき建物が観える。背面には稲佐山の稜線が約8割写っている。この頃はまだテレビの電波塔や展望台やロープウェイは出来ていない。母の頭の上に刺さっている様に観える棒は、国道の向こう側に建っている木の電柱である。この頃から被爆長崎市の復興が始まっていく。
浦上原天 拝
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