2025年8月26日 配信
*『探偵アンダーソン』西暦20XX年USAプロローグはこちら
俺のアパートは404号室、事務所兼用の住処だ。
活舌の良い声がした。いつものように彼女の声で一日が始まる。
キャビネット付きの木製のデスクの前で彼女は俺に背を向けたまま、作業をしている。
赤毛のロングヘアをなびかせて、散らかった書類の山をきびきびとした手つきで整理していた。
今日もいつも通り、黒のハイヒールにタイトなミニスカート、第二ボタンを外し豊満な胸の谷間が見え隠れする白いブラウスという姿。色気と気品を兼ね備えている。このダウンタウンにいる奴らの中では洗練されているように思う。
助手と言ったが、調査を共にしているわけではない。
彼女の仕事はもっぱら、報告書の作成や電話の受付、依頼者の訪問対応など事務的役割だ。
「ビリーったら、また顔色悪いわよ。飲みすぎ?」
彼女は振り向き、シニカルに笑いながら言った。
26歳独身。いつも化粧は薄めだ。めかしこまなくても彼女が美人だってことは誰が見ても一目瞭然だった。
切れ長な目で俺を悪戯っぽく見つめている。
普通の奴ならば、彼女を抱き寄せ‥‥‥とあれこれ考えるのかもしれない。
フェネンタルの効果が切れかかっていた時、俺は真っ先にこう思った。
ミニスカートから突き出す、つやのあるあの生足にかぶりつきたい。
上からいくならば、あのきめ細かい肌のうなじにかぶりつきたい。
俺は背筋を伸ばし、奥の冷蔵庫に向かった。早く、かぶりつきたかった。生ハムの塊に!
日課になっている生ハムの立ち食い。ほっと落ち着ける至福の時間。キッチンはエレインがいる仕事部屋からかなり離れ、死角になっていた。見えやしない。いや、見られるのは一番嫌だった。
エレインは他人には関心がなく、土足で人のプライベートに乗り込むことはしない性分だった。そこが俺は気に入っていた。
生ハムの塊にがぶりと食らいつく俺。
噛み砕き、最後まで残さずいただく。
蛇口をひねり、水と一緒にフェネンタルの錠剤を胃に流し込む。
これで、しばらくは大丈夫か‥‥‥しかしだ、ひとたびフェネンタルが切れれば、人肉への執着が酷くなるのが恐ろしかった。エスカレートすれば次はきっと‥‥‥脳ミソを食らいたいと思うようになるかもしれないのだから。
映画でよく死人が人間の頭に食いついて脳みその一部を咥えているシーンがあるだろう?
あれはあんなにうまくはいくわけはない。とても骨の折れる作業に違いない。なぜなら、頭蓋骨を割ってから初めて中の脳みそを取り出せるからだ。簡単にはいくまい。
腹ごしらえのあとは仕事が待っている。
なぜって?奴がいつも監視しているからだ。
奴の名はマーク。隣に住んでいる13歳‥‥‥ただのガキ。
「あ!アンダーソンさん、どこに行くんですか!」
ドアが半開きになり、にょきっと顔だけが出ていた。
ブラウンのおかっぱ頭でそばかすだらけの顔。いつもどおりラウンドメタルの眼鏡をかけている。話し方は年齢の割に丁寧だ。いわゆる優等生タイプってやつか?
くそ、また見つかったか‥‥‥それにしても勘のいいガキだ。
「アンダーソンさん!どこに行くんですか?新しい依頼ですか?」
また、朝から質問責めか。まったく。
「ああ、おじさんは忙しいからな、マーク、学校はどうした?」
「先生たちが高熱で倒れて、変な風邪が流行っているから、しばらく自宅待機なんです!」
風邪?俺の病気に比べれば軽いもんだ。
「アンダーソンさんは体の調子はどうですか?あまり顔色がよくないようですが」
「大きなお世話だ。家で宿題でもしてろや」
「もう、全部終わりました。物足りないぐらいです」
「ほう!余裕なんだな。じゃあな!」
「あ!待ってください!調査に行くんですよね?同行させてください!」
「はあ?バカ言うな!遊びじゃないんだ。家で大人しくしてろ」
俺はきびすを返すとさっさと歩き出した。
後ろでまだごちゃごちゃ言っているのが聞こえたのでこう言ってやった。
「じゃあな!ウロチョロするなよ!ヘル・パンクスに取っ捕まってバラされても知らんぞ」
アパートを後にして、表通りに出ると俺は深くため息をついた。
めまいがする‥‥‥不快な気分だが、調査に赴くとするか。
ピルケースに入ったフェネンタルは持った。
今日はエレインに借りた、一眼レフのデジタルカメラを首から下げている。
コートの内ポケットから一枚の写真を取り出した。
今回の依頼人から借りた行方不明人が写った写真だ。
写真──特徴のないどこにもいそうなティーンエイジ。ブラックヘアに垢ぬけない表情。
息子が行方不明になり、その両親が依頼してきたというわけ。
事前に情報屋のラリーから大体の居場所の目星は入手してあった。
街の至る場所で奏でられる騒音‥‥‥車のエンジン音から人の会話の断片。
生きた街を肌で鮮明に感じながら俺はふらふらとさまよった。
両親いわく、以前からヘル・パンクスの溜まり場に興味を示していたらしいが。
奴らの居場所はと‥‥‥あっちだ!
俺の事務所のあるダウンタウンは犯罪の中心部、ブロンクスに比べればましだ。
ここは昼間でも警戒を怠ってはならない。犯罪者やヘル・パンクスの溜まり場となっているのだから。
この州では探偵は銃を持つことは禁じられている。
それに探偵は本来、手荒な真似はしない。調査だけで結果だけを報告する。
本格的な介入は警察に任せてある。
もっとも汚職率が高い、この街でどれだけの警察官や刑事が本気かは疑問だが。
ブロンクスの入り口辺りまで来た。
丸腰でこの辺りを夜に俳諧するには、さすがに俺でも躊躇する。
昼間でも、ポン引きと売春婦がまばらに立ち並び、ヤク中がうろつく。
けばけばしいメイクをしたローライズを履いた若い女がキャットウォークで俺に近づき悪戯っぽく言った。
「ハァイ、私とどう?おにーさん!」
俺はうつむき、早歩きになった。女のきつい香水が邪魔だった。
「ねえ、あんたに言ってんのよ!」
そばに寄るな!噛みついて‥‥‥
自分の欲求を抑えながら、逃げるように走った。
ほとんどの商店が立ち退き、シャッターの閉まった区画に来た。
あのシャッターを開ければ、中で行われているのは売春か武器の密輸か。
いずれにしてもろくなことに手を染めてやしない。
ヘル・パンクスどもは集団で行動するから厄介だ。
派手な髪の色が特徴で原色に近いレッド、ブルー、グリーン。三色と決まっている。
レッドがリーダー格、ブルーは二番手、グリーンはいわゆる下っ端だった。
構成員の年齢は十代から二十代後半。ただのいきがったガキどもの集団と思ってなめてかかると返り討ちにあう。
銃やボウガンの携帯はリーダー格のみ、残りの者はたいてい飛び出しナイフか火炎瓶で武装している。
この辺はもともと商人街だったが、ヘル・パンクスが現れてから一変した。
恐喝、放火に爆破。立ち退き勧告を無視すると住人達には容赦のない制裁が加えられたと聞いている。
警察も見て見ぬふり。正義が死んだ街。
俺は歯を食いしばり、辺りの様子に気を配りながら慎重に歩いた。
風でシャッターが揺れるガタガタという音──人のささやき声。
若い奴の声が聞こえた。数人のだ。
煉瓦造りの廃ビルからか?おそらくそうだ。
俺は忍び足で廃ビルに近づいた。道の脇はごみ溜めでまばらに注射器が捨ててあった。
ヤク中どもがハイになり、その金欲しさに凶悪犯罪に手を染める。負の連鎖は止められない。
ハイテンションなバカ笑いが聞こえた。ガラスが割れた窓枠だけの一階の奥‥‥‥数人の影が確認できる。
「これをやればお前もヘル・パンクスとして認められる!やれ!」
俺はそっと壁際から中を覗いた。
髪の色はグリーン、長髪とモヒカン野郎──下っ端どもか。
仲間に命令され、飛び出しナイフを手にしたティーンエイジが震えながら少し年上の男を見据えていた。
仲間に入るための儀式みたいなものか?ヘマをやった奴を制裁か?
うん?あのガキは──
もう一度写真を確認した。
髪はまだパンクス色に染めていない。飛び出しナイフを手に近づくそいつは写真のティーンエイジで間違いなかった。
確認した。ラリーの情報通り、ブロンクスの倉庫街に生存を確認。あとは証拠の写真を撮って──
軽い筋肉痛を感じた。そろそろ‥‥‥飲まねば。
俺はピルケースの白いキャップを回し、錠剤を取り出すと口の中に放り込んだ。
よし‥‥‥さっさと仕事を終わらすとするか。
デジタルカメラのスイッチをそっと押した。対象物をとらえようと前のめりになったその時、ガラスの破片をうっかり踏んでしまった。
ガチャッという音が‥‥‥さすがにこれはまずい!
「おい!誰かいるのか!」
続く
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